2015年5月30日土曜日

大学は「職業訓練学校」化するべきなのか?→「機会は与えよ。ただしその先にあるものは示せ。」

今週水曜(2015年5月27日)の日本経済新聞朝刊,大学面にて,こんな記事がありました。

大学で職業訓練せよ 普通の学生には実学重視 (経営共創基盤CEO 冨山和彦氏)

新聞らしくセンセーショナルな見出しですが,冨山氏は自身の考えを昨年,文部科学省の有識者懇談会で提言しているらしく,記事ではこういったことを主張されています。

(以下引用)
――実学の重視というのは具体的には。
「経済学部はどの大学でも基本的にエコノミスト養成的なカリキュラムになっているが、卒業生の99%は普通のビジネスマンになり、全く役に立たない。経済学部で実学として教えるべきなのは簿記・会計だが、現実には東大の卒業生でもできないのが非常に多い」
(中略)
「日本の大学はもともと実学から始まった。福沢諭吉は実学を重視し、早稲田大学は東京専門学校だった。東大も工学や法学など実学から始まっている。それが戦後制定された学校教育法の83条で、大学は『学術の中心』とされ、職業教育は原則としてすることになっていない。これが問題の根っこにある」
(引用終了)

これだけだとちょっと分かりにくいのですが,PRESIDENT Online の2014年12月3日の記事「「G型大学×L型大学」一部のトップ校以外は職業訓練校へ発言の波紋」を読むと,氏の主張が詳しく理解できるかと思います。

(以下引用)
「文学部はシェイクスピア、文学概論ではなく、観光業で必要になる英語、地元の歴史、文化の名所説明力を身につける」「経済・経営学部は、マイケルポーター、戦略論ではなく、簿記・会計、弥生会計ソフトの使い方を教える」「法学部は憲法、刑法ではなく、道路交通法、大型第二種免許を取得させる」「工学部は機械力学、流体力学ではなく、TOYOTAで使われている最新鋭の工作機械の使い方を学ぶ」といった具合だ。
(引用終了)

これに対する対案として,同じ PRESIDENT Online の記事で,以下のような意見があります。

(以下引用)
「どういう根拠に基づいて、職業訓練校化せよと言っているのか」(本間政雄・梅光学院理事長)
本間氏は京大副学長、立命館大学副総長を歴任、OECDや仏大使館への出向経験もあり、国際畑が長い、元文部官僚だ。
(中略)
ただ冨山氏の見解について「今の大学が、教養教育と専門教育を組み合わせてリベラルアーツとか言っているが、十分機能を果たしていない。だからいっそのこと専門学校のように、あるいは職業訓練校のように、実技を教えればいいじゃないかと言っているのでは」と理解も示す。しかし「単に簿記会計が出来るだけでいいはずはない。ビジネスが国際的に拡がっていく時代に、イスラム教徒とは何かとか、インドの歴史とは、シンガポールの成り立ちはどうかなど、歴史・経済・文化、宗教を学ばなくてはどうするのか」と警鐘を鳴らす。
(引用終了)

さて,私もいずれは大学の教員になることを目指している,研究者の卵。これらの記事でトピックとなっている産学の関係性や,冨山氏の主張は,職業上非常にクリティカルな問題として関わってきます。

結論から言えば,私は上で引用した本間氏の主張に近い考えです。

冨山氏の主張は,非常に重要な点を看破しています。私はいわゆる「実学」と言われるものを学ぶ商学部の出身ですが,大手企業の新入社員研修などで教えられる内容が,まるっきり商学部の1,2年次に基礎科目として教えられる内容と一緒だ,なんてことが,現実に存在するわけです。

仕事に直結する知識を,方や18,19のときに学び,方や22,23になって学ぶ… この3~4年のタイムラグは,率直に言ってナンセンスです。冨山氏の言うような「実学」をもっと教えるべき,というのは事実でしょう。

これは産学の乖離が具現化している一例ですが,大学の内部に目を向けてみると,「この授業が将来どう役に立つか」といった視点が往々にして欠如していることも,事実でしょう。私が中学校に入学したとき,初めての歴史の授業で,先生は歴史を学ぶ理由として「温故知新」という言葉と共に,その意義を説いてくださりました。しかし大学の授業で,そういった話を聞いた記憶はあまりありません。この点に関しては冨山氏の主張に同調するのですが,大学教員はもっとこの点を明確にする必要があるでしょう。リベラルアーツと言って逃げるのではなく。

一方で私は,リベラルアーツが不要だとも思いません。この点においては,本間氏の主張に近いと言えるでしょう。

18,19の歳から将来の目標を見つけ,それに向かって主体的に取り組むことができる,というのが,学生の理想像かもしれません。

しかし,現実にはどうでしょう。そんな学生ばかりではないはずです。むしろ,学生みんなにそういうことを求めるのは無茶だとすら思います。

自分の将来進む道を決め,その専門にのめりこむタイミングは,人それぞれです。私だって研究の道を目指そうと決めたのは修士に入ってからですし,私の友人にも,大学に入った直後と3年生くらいからでは,まるっきり違うことをやっていた人がいます。その友人は,大学に入ったころにはまったく本人も周囲も想像していなかったであろう業界で,いま活躍しています。

私にも彼にも共通しているのは,大学という「機会」に恵まれた場で,偶然の要素も重なりつつその「機会」に巡り合い,「これだ!」という確信を得たことでしょう。私の考えが自己の経験に依存している感は否めませんが,自分の将来の進路なんて分かんないものですし,いつだってフラットに,冷徹に,自分の人生の針路を変えることだってあるはずです。それこそ,就職してからだって。

産学連携の実践的な教育も,多様なバックグラウンドを集積することも,サイエンスもリベラルアーツも,あるいはサークルや部活などの課外活動だって,広い意味での「機会」です。私の考えとしては,大学は機会に溢れた場であってほしい。その機会を与えなくなってしまうと,最終的に行きつく先は,知識の面でも人間性の面でも,狭量な学生が増えてしまう事態でしょう。

もちろん機会が多いということは,学生の側も時にはそれに溺れ,懊悩たる思いをするということでしょう。学生の側には,いま眼前にある機会がどういったものかを意識し,たとえ今ではないかもしれないにせよ,ここぞという場面ではその機会を掴みとっていく姿勢が必要になります。

まずはその前向きな姿勢を持つ必要があると,学生に伝えなければいけない。

そして,その「機会」の先には何があるのか。これを示すことこそが,大学教員に課せられた使命でしょう。本間氏の主張にあるように,リベラルアーツだって将来の役に立つわけです。生活の役にたつわけです。この点を,しっかりと学生に伝えなければならない。

中庸的な結論になってしまいますが,結局は産学がともに歩み寄って大学教育の幅を広げ,機会を与え,その先の見通しを学生に示さなければいけない。学生の側も,鷹揚に構えず,機会の先にあるものを見越して,それに飛びついていかなければいけない。

わが国は教育に投資することで発展していくと確信している,学者の卵としての,ささやかな願いであります。



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