2015年2月15日日曜日

修士論文を書いて感じた3つのこと

気付いたら半年くらいブログ書いてなかったんですね。それくらい、修論に没頭していた…ということにしておきましょう(笑)

さて、先日無事に修論の最終発表を終えました。課題も残しつつの発表でしたが、幸い合格ということで、あと少し所定のものを出せば修了できるはずです。

そうすると、SDMを出るので、このブログのタイトルもどうしましょうか… いま一度、正式に進路が決まり次第、考えることにします。


では本題。タイトルの通りです。

近ごろは大学進学率も上がって大学で卒論を書くというのは多くの人が経験しているわけですが、大学院の修論というとそうもいかず、なかなか周りで書いた人がいないものです。したがって「修論とはこうだ」的な声を聴く機会も少なく、私もよくネットで修論の苦労や悲哀が書き綴られたブログなどを読んでいました…(苦笑)

いちおう私もレベルはともかく修論というハードルをクリアーしたので、「修論かくあり」的なのを書いてみたいと思います。


①睡眠は大事
いきなり何を言っているんだというご叱責を頂戴しそうです。何より私は単純に惰眠を貪りすぎなだけ…ゲフンゲフン、しかしながら睡眠は大事です、本当に。

私の場合とくにM1前期で慢性的な睡眠不足状態に陥っていた…と今なら言えるのですが、ともかくその頃と比較して、ある種諦めて睡眠をたっぷりとっていた修論執筆期とでは、明らかに脳の働き方が違いました。「寝るのが遅くなったら無理して早起きしない」というのはフルタイム学生ならではの力技であることは認めますが、しかしながらやっぱり睡眠をしっかり取った方が、活動時間がより濃密なものになります。

特に修論というのは、自分の頭をフル回転させ、ただでさえ不足している自己の能力を余すところなく引き出して、ようやく修論になるかどうか、という世界です。ここで能率が下がるような事態は致命的です。理系で日夜長時間の実験作業が求められる場合などは致し方ないのですが、文系など机にPCと紙を広げてやるような修論研究の場合、そこでウトウトするくらいならいっそベッドで寝てしまい「今日できることは明日やればいい」との開き直りが必要なくらいだと言えます。もちろん翌日、本当にちゃんとやらないと大変なことになるんですけれど。

因みにこの第一の論ですが、「1回の徹夜は勿論、二徹や三徹も何のその!どんとこい!」みたいな超人には、まったく当てはまりません。そういう超人はたまにいます。が、逆に言えばそうそういません。凡人は素直にしっかり寝て脳みそを最後の一滴まで絞り出すことに注力すべきでしょう。


②何事も早目に越したことはなし
ネットで他の方の修論よろず話を読んでいても、一番出てくるのがこれです。かくいう私もかなりギリギリでした。

私の場合、アンケートによるデータ収集を行ったのが、11月下旬にまでずれ込んでしまいました。ここから分析を行うわけですが、当然この時期は分析だけやってりゃいいというものでもなく、論文のレビュー部分などを執筆しながら同時並行的に分析し、そこからその結果をまとめて考察まで持っていかなければいけなかったわけです。これは苦しかった。

加えて、最後に校正という作業が入ります。これは周りを見てもやっている人の方が少ないかもしれませんが、一発目に書いた自分の文章というのは想像以上にボロボロです。読み返すとトラウマになるレベルで誤字脱字だったり語句の表現が揃っていなかったり数値が間違っていたり…という問題が出てきます。

そして、修論は何より期限が大事です。「期限内に書き終えて提出する」ということをやらない限り、不合格にされても文句は言えません。これで前日深夜や当日に論文を書いているなんていうのは、例えるならば切れかかった紐を命綱にバンジージャンプをしているようなもんです。いつ切れてもおかしくありません。そんなのいやだってことはみんな分かってるんですが、結局そうなってしまうのが人間の性です。みんなギリギリ崖の上を行くような修士人生を送るわけです。

この問題を乗り越えるには、メタ認知的に「修論とは制作が遅れるものだ」と意識して、すべてを早め早めに取り組むほかありません。ちょっと早すぎるくらいでいいでしょう。また論文も、レビュー部分までなら、データ収集より前に書けるかもしれません。そういった早めの取り組みを、十分とは言えないながらも多少なりともしていたのが、私には珍しく提出間際に慌てなかった一因かなと思います。

なお結局、ギリギリになって誤植が判明して、一通り落ち込んだたけどね… そんなもんですよ…


③2年間は短いぞ!
極論するとこれに尽きます。

だいたいみんな、夢に胸を膨らませて修士課程に入学してきます。「よし、やるぞ!」と。最初からこの大志がなかった院生は、さすがにほとんど見たことがありません。

ところが入学後、学部とは違った授業の負荷、忙しさに打ちのめされます。またアカデミックな世界に少しでも触れてみると、自分がいかに矮小な存在か自覚することになります。ぼんやり考えていた研究テーマは、だいたい過去に研究されています。そりゃそうだ、過去の研究者たちもばかじゃありません、サボってたわけでもありません。もうひとつあるパターンですが、ぼんやり考えていたテーマが、本当は研究に適していなかったとか、じゃあ研究としてどこから手を付けていいか分からない状態になり、まさしく文字通り五里霧中の状態となります。そうこうしているうちに月日は経って1年くらいあっという間に過ぎてしまいます。さぁどうしよう。ああしようか、こうしようか、テーマを微妙に変えながら模索しては壁にぶち当たり、考えているうちに残り半年くらいになっています。ここでいよいよ焦って落としどころを探し始める→②へ(笑)

…というのがすべての人に当てはまるわけではありませんが、往々にしてこの状態に陥りやすいのが修士課程だと思います。単純に2年という時間があっという間に過ぎていく、というのもありますが、自分の知識の蓄積と、過去の知見を超える何かを生み出すという作業を、同時並行的に行うには、2年間という時間はじつはあまりに短く、かなり真剣に取り組み続けないと、とてもとても当初思い描いた領域には到達できません。いや、だいたい到達できなくて、到達できないんだけどここまでは来たぞ、と言えるかどうかだと思うんですけど。

もちろんここにもスーパーマンはいて、全部やっちゃう人もいます。ただし、全部やってるように見えるだけな人もいるんだと思います。ここは主観と客観、両方あるので、何とも言えませんが。


…さて以上、書いてきましたが、こんなことがたとえ最初から分かっていたとしても、完璧な修士生活を送れる人間なんてたぶんほとんどいません!だいたいは理想と現実の狭間でもがき苦しみ、その中でなんとか修士号を得ようとする中で、気付いたら何かを手にしていたりしていなかったり、という事なんだと思います。そして2年間を振り返ったときに「ああ、自分は甘かったなぁ…」と思うわけです。

しかしだからといって、修士生活や修士論文が無駄だと言うわけではありませんよ。きちんとやってきた人はちゃんとそれなりの修論は書いていますし、スーパー修士学生もいます。全員がその領域にたどり着けずとも、これからの修士学生が少しでも何かを手にして修了していってほしいなぁ、という思いを込めてこの記事を書いたわけです。自分もなんだかんだで、自分の修論に対しては愛にも似た感情を抱いているわけです、「完璧じゃないのも可愛くていいじゃない」って感じで(照)

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