2013年11月20日水曜日

文章を書ける条件

「なんでブログを書けるの?」と先日聞かれました。

書くことがあれば,書けます(笑)


こういう事を続けていくと禅問答のようになってしまいそうなので,ここで止めておきますが,ことこのブログに関しては,苦労して書いている感覚はまったくありません。毎日書けと言われたら間違いなく苦しくなるでしょうが,書きたいことができたとき,それを自然にアウトプットして記すようにしている今のような更新体系の場合,苦労することは皆無といっていいでしょう。困るのは,気づけばけっこう時間が経っている事くらいでしょうか…(苦笑)

以前「きみは駄文を書ける」などと言われたこともあります。ちょうど冒頭のようなことを聞かれたので,苦労することなくコンスタントに文章を書ける条件について,私の経験を交えながら,考えてみようと思います。


①トピックがある
当たり前ですね。書きたいことや,書かなければいけない内容。これが無いと,まず文章は書けません。ソースが無ければニュースも書けないし,論文も書けません。

但し,ニュース記事のように外部の出来事を記述するのではなく,自ら文章を創出することについて,この“トピック”がある事に気付くためには,少しコツが必要かもしれません。

トピックはどこから見つけてくるのか,という事になりますが,私が考えるに,おそらく殆どの人は,潜在的にあらゆるトピックを持っています。鍵となるのは,自分がトピックを持っているという事に,気付けるかどうか。少し注意深く,自分の頭の中からそれを抽出できるかという点です。


思い浮かべてみましょう。1年間は365日ありますが,その中で「まったく何も考えないで過ごす日」というのは,あるでしょうか?


トピックは何でもいいです。例えばニュースを見た時,私たちはそのニュースについて,何か思考し,感想を持つはずです。「へぇ~」と思うニュースについて,「へぇ~」と思った理由というものが,そこには存在するはずです。それを,ほんの少しだけ注意深く考えてみるだけで,Twitterの呟き程度の文章にはなるはずです。もし特に興味を惹かれるニュースがあれば,それだけでFacebookやブログの投稿ひとつ分くらいにはなるはずです。

或いは,友人との雑談でもそうです。例えばこの記事自体がそうです。「なんでブログを書けるの?」と聞かれ,答える際に,なぜか(WHY)について考え,返事をします。その場ではそれで終わっても,後からそれをちょっと考えて深める。これだけで,記事になります。

恋愛でも,何でもいいです。人生やキャリアについてでもいいです。好きなアーティストについてなら,皆さん語れるでしょう?満員電車に押し込められて,ストレスが溜まる。なんでこうなってるんだ。それを友達に愚痴る或いは愚痴られる。これだけで,ブログの記事一つくらいは,思いの丈を語れるはずです。あと飲み会の席での話などは,トピックの宝庫でしょう。会社のお付き合い的な飲み会だと,さすがにムリかもしれませんが…(苦笑)

私の場合,このトピックを引き出すプロセスは,以前スポーツに関するブログを運営していたことで,鍛えられました。スポーツをよく見る方にはご理解いただけると思いますが,見ているときにただ漫然と見ている,という事は,スポーツを見れば見るほど少なくなってきます。一つ一つのプレイについて感想を持ったり,そのあとの展開について考えたり。そういったことをまとめ,記事にしていくということを,高校生から学部2年生くらいまでほぼ毎日やっていました。これを繰り返していたことで,頭の中からトピックを引き出す事について,自然と鍛えられたと思います。


②ある時期にまとまった文章を書く習慣を持つ
鶏が先か卵が先かという議論は,非常に難しいところです。但し,文章は繰り返し書くことで,それに慣れていくという側面は,間違いなく存在します。

例えば私の出身中学では,毎週理科レポートの提出が義務づけられていました。A4のレポート用紙に,だいたい平均で6枚くらいだったでしょうか。考察だけで2,3枚は書いていたと思います。

こんな学校はたぶん他に無いはずですが,そんな私たちが高校や大学に進学した際,そこで課されるレポートについて「簡単に書ける」という感想を,中学時代の同級生たちは盛んに言っていました。勿論私にとってもそうです。これは間違いなく,中学3年間という特定の時期に,繰り返し繰り返し文章を書いていたことが背景にあります。皆口をそろえてそう言っていました。

また私の場合,先述したとおりほぼ毎日ブログを書いていた時期があったので,文章を書く事にも慣れていました。この話をしたところ,1人の友人が「私も文通していたから,文章を書くのは苦にならない」と言っていたことがあります。要するに,理科レポートだろうがブログだろうが文通だろうが,媒体は何でもいいのです。ある時期に,あるまとまった量の文章をコンスタントに書くことで,不思議と文章というのは書けるようになるものです。


③まとまった量の文章を読む
これも当たり前といえば当たり前かもしれませんが,結局読まなきゃ書けないという面もまた,忘れてはならないポイントかと思います。

一般的に,小説家は小説をたくさん読んでいます。あとがきや雑誌の対談記事などを読めば,それは伝わってくるでしょう。私小説などを書く一部小説家に例外はいるかもしれませんが…

また研究論文を書く場合も,同様のことが言えます。学者と呼ばれる先生方は,たくさん論文を読んでいます。当たり前のことです。論文を読んでもそうですし,学術的な書籍には,巻末に山のような量の参考文献が記されています。また学術論文は,文体や用いる言葉などが口語のそれとは異なることがありますが,これを体得するためには,読み,書きを繰り返すこが,もっとも基本的なベースとなるはずです。

そして,この点については非常に留意しなければならないのですが,私たちが書ける文章というのは,読んできた文章による影響が,色濃く反映されます。私のベースにあるのは,中高大学時代に読み漁ったスポーツ雑誌の数々です。そのため,こういったコラムのような記事は書けるのですが,一方で論文を書く際に学術的な言い回しを使うことなどは,まだまだ慣れていないと感じています。

他の例では,いわゆる「ケータイ小説」が分かりやすい例かもしれません。ケータイ小説のような文章は,私には絶対に書けません。ケータイ小説の書き手がなぜあの文体になるかというと,彼女たちはそういったものをたくさん目にしているからです。そうでない人があの文章に違和感を持つのは,私たちが初めて論文や学術書を目にしたときの感覚と,一緒なのです。なぜ彼らは,あのよく分からない文章を書けるのか。それは彼らが,そういった文章を日々目にしながら,過ごしているからなのです。





結局のところ,言語の体得と同じなのかもしれません。私たちが当たり前のように日本語を話せるのは,日本語のシャワーを浴び,それを使いながら生まれ育ったからです。文章についても,そのシャワーを日々浴び,また使っていけば,自然と体得できているはずです。

但し,文章というのは言語のさらに先の,派生したジャンル(コラム,レポート,論文,小説,ケータイ小説etc...)があり,それぞれに異なったキャラクタがあり,それぞれ別々に体得する必要がある,ということです。



以上,ここまでで文字数をカウントしてみたところ,3,000字をオーバーしておりました。結論としましては「文章を書けるかどうかというのと,それを簡潔にまとめられるかどうかというのは,また別の要素が求められる」ということですね(笑)

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