2013年7月11日木曜日

「一刻を惜しんで」やる必要・意味・決意

7月8日のSDM特別講義は,安西祐一郎先生の講演でした。

私が11年前,入試を経て慶應義塾のとある中学校に入学した際,入学式で祝辞を頂戴し,一番最初のクラス写真に共に写っているのが,当時塾長だった安西先生でした。気づけば随分と長く慶應義塾にいる私ですが,その大半は安西先生が塾長だった慶應義塾でしたし,その事は何となくであれ,意識していました。

なので,慶應義塾を離れた今でも,私にとっては安西“先生”なのです。


さて。その安西先生の講演の最後で,強烈なインパクトを放つ言葉を,先生が仰りました。

「一刻を惜しんで勉強してほしい」

この言葉の意味は,重い。いや,重いなんてもんじゃないですね。それこそ身体を雷に貫かれたような感覚になりました。

んー…これ以上言葉で言い表すのは難しいのですが,この一刻を惜しんでやるという事について,少し書いてみます。



■一刻を惜しんでやる「必要」

必要って書きましたが,必要なんてのは当たり前なわけです。我々にとっては。

もちろん人生いろんな道があるので,個々のそれを否定するわけではありません。ただし,こと大学院に通っている以上,またSDMに通っている以上は,一刻を惜しんでやるなんてのは当たり前以前のことですし,それこそぶっ倒れる寸前までやるのなんて,当たり前なわけです。本当にぶっ倒れてしまっては元も子もないので,さすがにそこの線引きは必要なんでしょうが…

だから,身体の面やタイムスケジューリングの面できついなんてのは当たり前なわけで,そこで弱音を吐いてしまうこともあるかもしれないけど,それを受け入れられない人なんて,極端な話,大学院になんて来ない方がいい。他の人生を歩んだ方がよっぽど幸せになれるでしょうし,世の中も良くなるでしょう。

とにかく大学院生は,一刻を惜しんでやらなきゃいけないわけです。ありとあらゆることを。少なくとも,この大学院にいる間は。それは義務であり,責任であり,必要不可欠なことでしょう。


■一刻を惜しんでやる「意味」

では,一刻を惜しんでやることにどんな意味があるのか。

これはもう,我々は一刻を惜しんで身に付けたもの基にをアウトプットすることで,人々を幸せにするんだと。これしか無いでしょう。

就職活動でこんなことを言ったらたぶん論理性云々といって落とされるでしょうが,私は大まじめに,大学院で勉強して,それを生かして働くってのは,要するにこれ以外の意味なんて無いんじゃないかと思います。自己実現という意味合いもありますが,その先にあるのは結局これだろうと。我々がアウトプットを生み,世の中に出していくことで,最終的に幸せになる人が出てくる。そういうことなんだと思います。


■一刻を惜しんでやる「決意」

やります。以上。



結局のところ,意欲があるとか無いとかいうのは問題ではなくて,やるかやらないか。これだけでしょう。

一刻を惜しんでやるか,やらないか。

一刻を惜しんで勉強するか,しないか。

一刻を惜しんで考えるか,考えないか。


あなたは,どうしますか?SDM生なら,それこそ考えるまでもありませんよね(笑)

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